勿忘草の咲く町で 安曇野診療記(夏川草介)の感想/ブログ

今回は、勿忘草の咲く町で 安曇野診療記(夏川草介)の概要と感想をご紹介します。
本の概要
タイトル | 勿忘草の咲く町で 安曇野診療記 |
著者 | 夏川草介 |
発売日 | 2022年03月23日(文庫版) |
あらすじと物語の紹介
生きることと死んでいることはどう違う?現役医師が描く高齢者医療のリアル
美琴は松本市郊外の梓川病院に勤めて3年目の看護師。風変わりな研修医・桂と、地域医療ならではの患者との関わりを通じて、悩みながらも進む毎日だ。口から物が食べられなくなったら寿命という常識を変えた「胃瘻」の登場、「できることは全部やってほしい」という患者の家族……老人医療とは何か、生きることと死んでいることの差は何か? 真摯に向き合う姿に涙必至、現役医師が描く高齢者医療のリアル!
松本市郊外の梓川病院を舞台に、3年目の看護師・美琴と、1年目の研修医・桂を主人公に描く医療小説。
プロローグ・エピローグと全4章の物語から成り立っており、一話完結の短編としても、全体として一つの小説としても楽しむことができます。
読書記録
- 読了日:2025年10月12日(土)
- 読み心地が爽やかで軽いので、気がついたら読み終えているタイプの小説
感想
安曇野の豊かな自然、そこに咲き誇る花々と季節の移ろいとともに、二人の主人公・美琴と桂それぞれの目線から描く、医療小説。
桂が花屋の息子であることから、作中で要所要所にお花の説明やうんちく、中には花をテーマにしたエピソードが差し込まれるのが、ちょうどいいアクセントになって明るく読み進められるのが良いところ。
ですが、その実描かれるのは恐ろしいほどシビアな医療現場。具体的には、高齢者医療の現場について。
かつての医者も家族も全力で治すことに注力できていた時代は終わったのだ、と作中では何度も言われています。
ええ、本当かな、そこまでのことは無いんじゃないか、命に対してそれは言いすぎだろう、と序盤私はそう思っていましたが、この物語はそう思っている読者にもしっかり刃を突きつけてきました。
汚いものには蓋をして、見て見ぬふりをする。
テレビや小説では”劇的な死”や”感動的な死”ばかりが描かれる一方で、地味で汚くて不快な臭気を発する”現実の死”は、施設や病院に押し込んで黙殺する。
そういう現代の医療が直面している闇の一端が、社会の縮図が、桂の前に立ちはだかっている問題なのである。
完敗です。
まだ私は幸い直接そういった事態には直面することなく日々を過ごしていますが、いざそういう局面を迎える前にこの物語に出会えて良かったんじゃないかな、と思います。
ただこの物語の凄いところは、そんなとことん重いテーマを扱っておいて、その実物語としてはそこまで重たくなっていないこと。
読み終わったときに、ある種の爽快感を得ることができること。
きっと描くものは重たくとも、それを取り巻く現実は厳しくとも、そこに生きる人々、それぞれが持つ哲学、その周囲の自然環境そのものがうまくバランスよく気持ちよく描かれているからなんだろうな、と思っています。
これは、同じく夏川草介さんが描く物語「神様のカルテ」シリーズにも共通するもので、だから私は夏川さんの本を懲りずに手に取ってしまうんだろうなあ、と思います。
今作「勿忘草の咲く町で」は一冊で完結する物語ですが、作中でちらっと「神様のカルテ」の栗原一止が登場しています。
今後「神様のカルテ」シリーズで、桂や美琴の影を追うことができるのかもなあ、と思うとちょっとワクワクしますね。
印象に残ったポイント
主人公の美琴と桂について
というより、純粋に。医者と看護師の働き方ってどうしてこれほど非人道的なんでしょうね、という部分。
ただでさえ日中はひっきりなしに訪れる外来客を捌き、入院患者の様子を見、必要な治療を施し、場合により急患の対応をする。
それでなんとか無事帰宅できたとして、受け持ちの患者の状況が悪化すれば電話一つで病院にとんぼ返り。
さらには、夜通し病院の夜を預かり、翌日もそのまま働くというにわかには信じがたい”当直”という仕組み。
ただの会社員をやっている身としては、全く想像の出来ないレベルのとんでもないハードワークで、到底真似できない、という突き放した言い方でしか形容することができないです。
じゃあ当直や呼び出しが無い看護師は楽なのか、というとそうでもなく。
当然のように勤務はシフト制で、夜勤や遅番もある。入院患者になにかあればすぐに駆けつけたり対応しなくてはならないのは医者と同じで、入院患者の命を預かるという意味では同じような責任も被せられる。
それでいて医者も看護師も、世の中の人が普段全く考えていないような、むしろあえて意識から締め出し”臭いものに蓋をする”ような、生と死について日々日々判断を迫られる。
悩み、悩み抜き、動き、その責任を取ることを強いられる。
本当に、どうしてこれほど割に合わないことがまかり通っているのか、と思わずにはいられなくなります。
多分そのことを「医者や看護師をやるひとは偉いね」だけで片付けてはいけなくって、どうしてそれでも、そんな状況でも医者や看護師として生きていくれている人がいるのか、を考えるべきなんだと思います。
考えただけでは正直小さな私の力では何も出来ないかもしれませんが、少なくともその部分を知らぬ存ぜぬで通したくは無い、せめて見ることはしたいです。
そう思わせられたのはこの物語をはじめとした各種医療証説のおかげなわけなので、ぜひこういった物語が広く読まれるようになると良いな、と思います。
安曇野の自然について
物語では何度も安曇野の美しい自然について描かれます。これが羨ましくてたまらない!
安曇野に来て、桂はしばしば思う。
本当に美しい土地なのだ、と。桂の生まれは東京であるから、広大な関東平野のただ中では、野山と接する機会はけして多くはなかった。もちろん少し足をのばせば、ちょっとしたハイキングコースやキャンプ場、水量豊かな渓流といったものに触れることができたが、安曇野の在り方はそうではない。
水や空気の美しさはもちろんだが、そこに住む人の生活の中にまで土地の美しさが滲み込んでいるような独特な透明感がある。
第四話 カタクリ賛歌より
私自身東京生まれ東京育ちでありつつ、どちらかというと都会ではなく自然豊かな地で育ち、今もそういった場所に根を下ろしていますが、東京の緑とこういった地の緑は、圧倒的に違いがあるんですよね。
自然の規模感や距離感の問題かな、と思っていたのですが、確かにこの物語がいうように”そこに住む人の生活に土地の美しさが滲み込んでいる”か否か、も一つのポイントとしてあったのかも、と思わせられました。
東京の緑は、ただそこに在る、というよりは比較的”創られた緑”であることが多いと思っています。
それ故に結構年を経るごとにその在り方や見え方は変わっていて、5~10年スパンで雰囲気がガラッと大きく変わっているんですよね。
それに対し、安曇野のような場所の緑は、ただそこに在るもの。
5~10年くらいで雰囲気が変わるということもなく、今までも、これからもずっとそこにあり続ける。
だから世代を経て、年代を経てもその土地に住む人々にそういった景色が滲み込んでいくのかなあ、というふうに思います。
そして私はそれがシンプルに羨ましい。
願わくば、私自身がずっと過ごしてきたこの東京の町もそういうふうに在れれば、と思わなくも無いですが、まあどんどん住む人も世代も移ろい変わりゆく忙しい町なので、なかなか難しいのかなとも思うところ。
それもそれでまた味があって、だから今もこの町に住んでいるわけですが、それはそれとして羨ましいものは羨ましいものです。笑
また安曇野の自然に触れたくなったときは、この物語に戻ってこようと思います。